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秋の京都で想うこと

2021.11.25

 思うところがあり、京都へ行った。秋の京都は美しい。何処を写真に収めても絵になる。願わくば変わらない不朽の場所であって欲しい、と思うのだが、その願いも空しく、嵐山は全くの観光地と化してしまって少し残念だった。
高校の修学旅行で訪れたのだから、数十年前。嵐山は山里の風情があり、現在では立ち入ることができない苔寺も普通に見学ができていたものだ。建物の外観は公の規制で統一され風情を感じるものの、その本質は変わってしまったのかも知れない。信仰上の何かより、現世の利を私たちは求めているのかも。

 今回の京都訪問の第一の目的は旧知の友人に会うことだった。丁度、コロナウイルスが流行を始めた年に日本に赴任され、任期満了の為、本年末に本国に戻られることになったのだ。韓国観光公社という日本の観光庁にあたる機関に勤められていて、日本に赴任する支社長の中では初の女性支社長となった女性だ。ここで会っておかないと、また何年も会えなくなるかも知れない。コロナが終息して海外で何時会えるものか。赴任された年に大阪まで会いに行って緊急事態宣言やら何やらで、やっと会うことができた。しかも、京都で。

私と彼女はほぼ同じ年齢で、嵐山の「嵯峨野」という有名なお豆腐屋さんで湯豆腐を食べながら、家族や仕事の話をし、自然と第二の人生の話になった。彼女も本国で定年を迎えるまで後数年。「最近100歳まで生きるのはあまり有り難くないなと感じます」と彼女。「100歳まで生きて後ろの20年がただ生きているだけだとしたらどうでしょうか」。私も同じことを考える。今はまだ元気に働いているが、いずれ一線を退くことになるだろう。人生最後の20年をどう過ごしているだろうか。

私が今、「産学連携教育イノベーター育成プログラム」に参加し立教大学のリーダーシップ開発力育成コースを専攻しているという話をすると、「私も何か学ばないといけないと思っていたところです」と即答された。このような話ができるところが大きな二人の共通点でもある。「どこかに出向して勤め続けるより、何か次の人生に相応しいことをやりたいですね」。どこまでも真摯な女性である。

 蕉風(松尾芭蕉の一門)俳諧の理念の一つに「不易流行」という言葉がある。不易「永遠に変わらない本質的なもの」と流行「時に新味を求めて移り変わるもの」という意味合いだ。
 人もその本質を見失わず、時に応じた生き方が求められる時代である。私も時に応じられるよう、「学び」続ける重要性を改めて感じた京都の午後であった。


専務理事 由木千尋

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